太平洋戦争で史上最悪の作戦と呼ばれたインパール作戦で生還した、宮城県栗原市の男性が5月に109歳で亡くなりました。生前に残した肉声テープや日記から浮かび上がる戦場の記憶です。

 栗原市の後藤公佐さん(85)。父親の信一さんは、5月に109歳で亡くなりました。当時、宮城県の男性で最高齢でした。
 後藤公佐さん「とにかく穏やかな性格で、ところがどこかに芯があって。世界大戦を体験してそれで強い人間になったのか」

 父親の信一さんは太平洋戦争中、多くの犠牲者を出し史上最悪の作戦と呼ばれたインパール作戦に参加。命からがら生き延びました。
 信一さんは90歳を迎える頃、ノートに戦争の体験を綴り始めました。
 後藤公佐さん「今から23年くらい前、そこから3年くらいかけて書いた記録です。読んでびっくりしたのは、地名とか川とか町の名前を良く覚えているんだよね。生きるか死ぬかの境での生活だったから思い出せるのかなと」

 

戦争体験を綴る

 

 1943年6月。31歳の時、信一さんに召集令状が届きます。
 「隣の人達がおめでとうと言ふて来た」「『信一さんは常に体が弱いから元気で帰ってこられないだから』と話された。其のときは何もいわなかったが俺はどんなことがあっても帰ってくるんだと肝に銘じて居た」

 1942年3月。太平洋戦争開戦から間もなく、日本軍はラングーン、現在のヤンゴンに侵攻。イギリスが支配していたビルマ、現在のミャンマーを占領下に置き、各地で勢力を拡大していました。

 しかし、1942年6月。ミッドウェー海戦で主要空母4隻を失って敗戦。1943年2月にはガダルカナル島を失い、敗色濃厚となります。
 1943年12月。日本劣勢の中、信一さんは軍需品の輸送や補給を任務とした輜重兵としてビルマに配置されます。

 到着から間もなく、ビルマからイギリス軍の拠点があるインドのインパールを攻略する作戦、インパール作戦が構想に上がります。
 劣勢の事態を反転させたい大本営。イギリスやアメリカの補給ルート蒋介石ルートを遮断し、劣勢の流れを変えることが目的でした。

 1944年3月。インパール作戦が開始されます。信一さんたち兵士の前には、川幅600メートルほどのチンドウィン川が立ちはだかりました。
 「チンドウィン川は大きな川で、橋がなく水が深いので渡河ができない。それでドラム缶を集めていかだを組んで渡河した。兵隊は良かったが馬は大変だった」

 イギリス軍の空襲を避けるため夜に行われた渡河。馬や弾薬はほとんどが流されてしまいます。
 川を渡った信一さんたちは、標高2000メートルを超える山が連なるアラカン山脈を越え、インパール北部のコヒマまで侵攻短期決戦を考え、制空権が確保できていなかった日本。
 対してイギリスは、大量の輸送機による空中補給で持久戦で挑む考えでした。補給が途絶えた信一さんたちは孤立します。
 「先発隊20人くらいでいたんだけれどもね。昼間、本当に低空で飛行機がどんどん来て、落下傘でね糧秣落としたり兵器落としたりね、山の高い所から見えるのさ。
とってもおらばり(自分だけ)では無理だから本体に連絡して応援を」

 迷走が続いた日本軍。遂には命令に背く部隊も出ました。
 雨季に入った5月、信一さんが所属する31師団の佐藤幸徳師団長は、補給が無いことから軍部に逆らって独断で退却を決断しました。

 補給もなく、苦しむ兵士たち。雨季でぬかるむ道を歩き、撤退は悲惨を極めました。
 「日本兵が(道の)両側にべたべたと倒れていた。あんな悲惨な思いはあまり話したくない。(道の)両側に白骨、ハエがプンプンと倒れた人の鼻から口からたかっていた。あの状態は見られたものではない」

 短期決戦のはずが、戦いは数カ月に及びました。兵士は次々と餓死やマラリヤなどの病に倒れました。
 無謀な作戦によって、インパール作戦に参加した約10万人の兵士のうち3万人が亡くなりました。
 「子ども2人、向こうに行ってから1人生まれたとビルマに連絡があった。だから俺はどうしても帰らないといけないと思っていた。子どものためにも」

 後藤公佐さん「片方は戦死して姿変わって帰ってきて、自分は生きて帰ってきたんだという何か申し訳なかったというかそういう気持ちもあったのか。帰って来てからは、家の農業を一生懸命やって私たちも育てられたわけで」

 

戦争の記憶を次の世代に

 

 父が体験した史上最悪の作戦。公佐さんは、信一さんの日記や肉声テープを元に冊子を作り親族に配りました。
 後藤公佐さん「これを子ども、孫、兄弟たちの子ども、孫たちにも伝えていってもらえば、国の将来のためにも良いのかなと」

 終戦から78年。109歳まで生き抜いた信一さん。戦争の記憶を次の世代へ。
 後藤公佐さん「もう食うものも無くてね。そこにある葉っぱとか動物なんか食べたりして、苦労して苦労して生きた人がこんなに長生きするなんて。一体、命や生命とは何だろうなと思うことがあるね」